「茶」の宣揚


 私は時々「茶の湯は世界的なものになるだろうか」という質問を受ける。

「今の形では決してなるまい」と私はいつも答える。「併し、茶の道として

の立場、美への見方などには、今後世界に影響を与える力が充分あろう」。

私はそう言い添える。茶の湯が「茶道」であるならば、当然その筈だと私に

は想える。

 ここで「茶の湯」というのは、抹茶を飲む時、一定の形式を持つに至った

茶礼のことである。これは日本の建物や生活と特殊な関係を持つものである

から、すぐには外国に持ってゆけぬ。日本人が茶室で茶礼を楽しむ心持ちは、

非常に特別な発達で、そのままでは国際的なものには通用しかねる。又外国

人の暮しに直ちに適合するものでもあるまい。ともかく日本的色彩が余り濃

くて、その約束などは普遍的性質のものだとは決して云えぬ。その意味で世

界的な流行などには到底拡がらぬ性質があろう。まして家元の権威などが、

外国人に通じると思うのは愚かであろう。

 それにこの頃流行の「茶」には、却って流行して貰ってはこまる要素が多

い。日本ですら一大改革があってよいのであるから、今の「茶」などをその

まま外国に出されては、寧ろ恥かきにすらなろう。家元制度なども代表的な

封建性で、今後どれだけ続くのか。続く必要があるのか。今のままで続いた

ら茶の湯には益々堕落が来よう。その世襲制に根本的な無理があるのである。

家元の跡継がいつでも一流の茶人だなどとは誰も保障しない。所がこの不自

然さが今も通用するのは、多くの者が経済的に寄食する手段を、その制度で

成り立たせているからである。その裏は金銭的に、とてもきたないものであ

る。昔カトリックで免罪符を金で売ったのと、とても似ている。これが封建

制の余弊を丸出しにしている点だと云えよう。

 尤も家元の跡取に、稀代の大茶人が出ぬとは限らぬが、心もとない期待で

あろう。それ故禅宗で行われているように、法嗣を一般から厳しく選び出し

て、それを家元と仰ぐなら筋が通る。それなら宗風は栄えるであろう。何に

しても世襲が無理なことは、東西本願寺の場合と同じである。病菌のためい

つか内から崩壊する日があろう。世襲である限り家元制などは、害の方が多

くて、永存の理由はない。家元と聞くと誰なりと有難がる如きは、茶人達に

見識の全くない証拠である。

 それに今の「茶」は、とかく金持の「茶」であったり、道具屋の「茶」で

あったりして、貧の茶、浄の茶、禅の茶など、どこかへ押しかくされて了っ

ているのである。うたた末世を想わしめるではないか。それに茶事に少しく

巧者になると、ひとかどの茶人気取りなどする小茶人共が多くてこまる。而

も茶に溺れたりする様は、見ても見苦しいものである。それにこまったこと

には、茶事をやるからには、器物の美などよく分かる筈なのであるが、明盲

目がとても多いのはどうしたことか。事柄には巧者になるが、一向に物の美

しさは見えぬ。論より証拠、茶会に出ると、とても美しい器物を用いるかと

思うと、同時にとてもつまらぬ品まで、勿体をつけて褒めたりするので、がっ

かりする。私は不幸にして今まで、これはと思う鋭い眼の茶人に出会ったこ

とがない。どこかにいるのかと思うが、その数は極めて少ないと見える。宗

匠と自負する人々でも、眼の方はいたくあやしい。茶人達は「知ること」と

「見ること」とを一つだと思っているらしい。所が詳しい知識、必ずしも正

しい眼と云えないのが事実である。悲しくも多くの場合、却って物識りのた

めに見る眼が曇って了うのである。つまらぬ茶器まで大事がる茶人達が多い

のを見ると、ここでもうたた末法の観を強めざるを得ぬ。

 まして茶禅一味など説く段になると益々あやしい。余程禅修業でもしない

限り、そんなことは、うかうか云えた義理ではあるまい。恐らく今の茶人達

の一番の欠陥は、眼の力が乏しいと共に、心の準備が不足していることであ

ろう。

 それで今のままでは、茶の湯を外国にまで拡げる力はないし、又今のまま

の「茶」を拡げてもらってもこまる。又世界は、それを受附けるほどに甘く

はあるまい。併し本来の「茶」には、器物への見方、美への理解、特に心の

道としての「茶」が点てられ、そこには大に深いものが宿っているのである。

特に美への仏教的見方は、日本の茶道で完成されたと云ってもよい。それは

只の鑑賞では決してなく、生活に即した茶礼にまで結晶したことにも、立派

な意味があろう。それ等の面では将来、大に西洋に、否、世界に寄与する資

格があると思われてならぬ。丁度禅にその力がある如く、西洋では充分発達

しなかった見方が茶道で円熟しているので、その本質的な普遍的な価値は、

当然世界的に輝かされてよい。それは一種の美の宗教として認知されるであ

ろう。この点では決して茶の湯という特殊性に限られたものでなく、道であ

り法であるから、世界の識者から支持され、讃歎される値打ちがあろう。そ

の意味では茶道には客観的に権威のあるものが内在すると云ってよい。そう

してこれを宣揚することは、茶人達の大なる任務なのである。それを想うに

つれても、今の迷った「茶」の不甲斐なさを嘆かざるを得ぬ。

 昔、唯円房は、泣く泣く『歎異抄』を綴って、師親鸞上人の正統を維持し

発揚しようとしたが、今心ある茶人がいるなら、同じように、「茶」が異端

に沈んでいるのを嘆かざるを得まい。枝葉のことにのみ走る今の「茶」を見

ていると、うたた道の遠いのを嘆息せざるを得ぬ。誰か立ち上がって、高く

道旗を揚げる者はないであろうか。茶人ならぬ私ですら、志を動かさざるを

得ぬ。


                   (打ち込み人 K.TANT)

 【発表:昭和29年12月】
 (出典:新装・柳宗悦選集 第6巻『茶と美』春秋社 初版1972年)

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